米国人彼氏Dさんと雑種犬Coco(没2020)と共にひっそりと 慎ましく暮す男の
地味でありふれた たれ流し的日常生活日記
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さて 今回の日本訪問の本題である祖母の葬儀に行ってきました
実家より 電車に乗って山の奥のほうへ向かいました
アメリカ人と日本人の喪服姿はきっと不思議に見えたに違いありません・・・
この旅行は もともと祖母に会いに行くために決めたのに
決めた次の日に祖母は他界してしまい 日本行きをそのものを中止しようかと思ったのですが
落ち込んでいるであろう母親に会いに行くのもいいと思って そのまま決行したのです
2人が日本行きを決めて 母親に連絡したら母親が祖母にそれを知らせて
その知らせに祖母がDさんにも会えるね~と喜んでいたのにその次の日に亡くなってしまった祖母 とっても残念ですが これも受け止めるしかない そして間に合わないだろうと思われていた祖母の葬儀
これがなんともいえないタイミングでちょうど僕達が日本滞在中に執り行われる事になり
2人して葬儀に参列することが出来たというわけです
最初は車で行こうかといっていたのですが 時差ぼけで眠くなるかもしれないし
こういう葬儀ではお酒が入ったりすることが多々ありますので
のんびりと電車を使っての移動にしました
葬儀は午後一時からですので 腹ごしらえもしておいた方がいいと思い
これまた日本の文化! 駅弁を買って 電車の中で食べながら行くことになりました
ちなみに 目の卑しい僕はいろいろはいっているのお好み弁当
少しずついろいろ入っていて 楽しいお弁当でした
そしてDさんは 親子丼弁当
あまり甘い食材が好きではないDさんにとってこのお弁当とはいまいちだったようなので
途中で交換して食べることにしました~
僕にとったら十分美味しかったけどな・・・(笑)
のんびりと景色をみていると ところどころまた紅葉が楽しめました
日本へ向かうときこの時期もう紅葉は無理だろうな~もう遅いだろうなと思っていたのですが
なんのなんの!
写真ですといまいちな写りですが 実際の目で見るとそれは見事なさまざまな赤や黄色の木の葉
たいへん豪華で 思わずため息が出てしまうほどでした
カリフォルニア 特に僕達が今住んでいるところは温暖の差もそれほど激しくないため
ほとんど紅葉というものが見れない場所に住んでいるので
こういった光景を見れて 心地よい喜びに包まれました
これは祖母がくれた最後の贈り物だったのでしょうか?
葬儀のことをブログになんか書いてしまうと 何か言われてしまいそうですが
ここは僕の日記でもあり 日常の出来事も 思ったことなどの記憶を残しておきたいので
あえて 祖母の葬儀のことも書いておくことにします
この日本行きは葬儀参列が主な目的でしたが
実際祖母の葬儀に参列すると言う事実に実感がわかず
というか・・・祖母が他界したこと自体をあまり認識できない状態
今まで遠くはなれて住み 年に一度か二度日本へ帰ったときに会う関係だった為
亡くなったという報告が入っても心の中に何故か?
また日本に行けば会えるのではという感覚が拭えなかったのです
そういう心理的状態で葬儀への参列でしたから 悲しみよりも
一体ここで何をしているんだろう?と言う意識の方が初めは強かったです
キンキラ金で 葵の御紋がそこらじゅうについている本堂に入り
住職の話や 読経が聞こえても 悲しみと言うものはさほどこみ上げてきませんでした
もしかしたら 自分にとって祖母の死がそれほど悲しいものなのではないのかとさえ思ってしまうほどでした
久しぶりに会う従兄弟たちが幼い子供を連れて
今まで会ったことのない祖母の遠い親戚も駆けつけてくれています
静かな葬儀の中での子供たちの容赦ない はしゃぐ声は大変響きます
それは まるで祖母の死とそのひ孫たちの新しい生命の両極を
そう人生の縮図を見せられたような感覚さえあります
しめやかに執り行われる式の中
生まれたばかりの子供たちは大きな声を出し
死者は静かに佇んでいる この世の中はこの繰り返し
永遠はない 生と死の繰り返し
いつかは自分も幼い頃 誰かの葬儀で大きな声を出していたのかもしれないし
そして今度は 静かに眠ることにもなるのだろうな・・・ それが自然の摂理
そんなことを考える中 住職が参列者に焼香を促しました
祖母が一緒に住んでいた叔父夫婦 その子供達が次々に焼香に立ちました
そして 長女である僕の母親が焼香をして戻ってきた時
目の周りを赤くし その目から涙があふれ出ていました
あんなに気丈で もう心の準備が出来ているから大丈夫!と言って
この日 家を出る時も全くいつもと同じ感じでいた母親が泣いていました
今まで母親が泣いているところなど ほとんど見たことのない僕にとって
この現象が いきなり僕に祖母が本当に亡くなったんだという事実として理解させ
これは本当に起こったことで もう祖母には会えないんだと心と体が一致して理解した時でした
そんな状況下 涙腺がゆるくなってきたところに 僕の焼香の番がやってきました
今まで座っていたところからは 見えなかったのですが
祭壇の中央に祖母の写真があり 静かに微笑む姿がありました
僕がいつも思う 思い出す祖母の姿よりも ひとまわりも小さくなってしまった
優しく笑いかける祖母の姿を見たら もう心の流れを制御させるものがなくなってしまいました
亡くなったという報告を聞いたとき そしてそのあとも悲しいことは悲しかったものの
それを体の芯の部分から思ったような感はありませんでしたが
このとき初めて 心の奥のほうから悲しみがこみ上げてきました
しかしながらこれは 激しくこみ上げる悲しみと言うものではなく
静かな海辺に寄せる波のように すこしずづ一定の間隔を置いて寄せるような
ひっそりとしたそれでいて確実な不思議な悲しみでした
隣をふと見てみると兄が涙していました
こう言っては何ですけど・・・うちの兄は冷静沈着でほとんど感情と言うものを見せない
愛想もないけど 悪い人ではない 頭のいいでも何を考えているのかよくわからない人
その人も祖母の死に涙するとは意外であり それでいてホッとする光景でありました
彼も彼なりにいろいろと思うことがあるようです
葬儀が終わった後 場所を変えて お清めと称する
死者への最後の晩餐のような儀式がありまして たくさんの料理が用意されていました
食いしん坊の祖母にはこの最後の晩餐は嬉しいものだったことでしょう
最初に住職がお経を唱え 祭壇にある同じ食事に箸をつけ 祖母の御前に食事を供えます
その後 皆さんでまたお経を唱え 会食が始まりました
僕達はこんな食事が出るとは思ってもいなかったので
駅弁をしっかり食べてしまっており この食事にはかなり難儀しました・・・(汗)
でも美味しかったです(笑)
そんな食事の中 祖母の思い出話に花が咲く頃
叔母が ひとつの古い写真を見せてくれました
これは祖母が20歳の頃にお見合い写真として撮ったもの
つまり70年前ですから 1939年(昭和14年)に撮られたものです
祖母は いわゆる政略結婚みたいなもので
その当時 ある有力者の次男を婿養子として迎え実家を継ぎました
もちろんこんな結婚はうまくいくはずもなく 大変な苦労が待っていたそうです
さて この写真の左下の方に幽かに刻印が見られます
それはこの見合い写真を撮った写真館の刻印のようです
拡大してみるとこんな感じで
東 TOJO STUDIO
條 KOJIMACHI,TOKYO. と読むことが出来ます
70年も昔のことですし その後日本は第二次世界大戦を経て激動の時代を歩んでいきますから
この写真館がなくても当たり前だな~とおもいつつ ネットで調べてみたら・・・
なんと!驚くことに
この 東條フォトスタジオ しっかり現存しているようです!
ここの写真館のウェブサイトをのぞいてみると
”創業者東條卯作が麹町に写真館を開業したのは明治45年、1912年のこと。
それから今日まで、東條写真館は約100年近くの歴史を刻み続けています。”
とあり かなり歴史のあるフォトスタジオであることがうかがえます
長い歴史のなかでさまざまな著名人の写真撮影も多数 受けてきたようです
”・・・(中略)
また、女性を美しく撮ることにも戦前から定評をいただいており、
「東條で撮ると、幸せが訪れる」とのうれしい評価も頂戴しております。 ”
祖母の父親はきっと 20歳になったばかりの自分の娘をより美しく撮る為に
そして より幸せになってほしいとの思いも込めて
このスタジオで娘の見合い写真を撮らせたのかもしれません
その曽祖父の思いは通じたのでしょうか?
その娘が90になり たくさんの親族に見守られながら 食事もしっかり自分でとり
楽しく歌を歌いながら 大きな痛みもなく眠るようにこの世を去っていきました
もちろん途中 激しい戦争があり 貧困の時代もあり
大変な苦労があっただろうとは想像できますが
最後の最後の部分を見てみると そんなに悪い人生ではなかったのではないかと思えてきます
生きているうちに 祖母本人からこの写真を見ながら
この写真を撮った時の心情や思い出を聞いてみたかったな
彼女にとって この東條フォトスタジオのうたい文句のように
あそこで写真を撮って幸せが訪れたのか?と言うことも 本人から聞いてみたいものだった・・・
こうやって思うと まだまだいろんな話を聞きたかった
もっと頻繁に会えればよかったな もっとデートすればよかったな
でも もうそれはできないから
僕は祖母が幸せな人生だったと思うことにする
9月の訪問は 本当にしてよかった
もちろんあの時は これが最後になるとは思いもよからなかったけど
いま祖母の死をひどく後悔することなく悲しめるのは あの時毎日会いに行った
そのおかげかもしれない
人は時間が永遠にある錯覚に落ち
いつでも大事にな人に会えると思いがちであるが それは大間違い
人の命なんて簡単にこの世から去ってしまう
だから できる時に出来る精一杯のことを
態度に 言葉に出して伝えなくてはいけないのではないだろうか
さようなら おばあちゃん
たくさんの思いでありがとう
続く★
いつもいつもありがとう!
実家より 電車に乗って山の奥のほうへ向かいました
アメリカ人と日本人の喪服姿はきっと不思議に見えたに違いありません・・・
この旅行は もともと祖母に会いに行くために決めたのに
決めた次の日に祖母は他界してしまい 日本行きをそのものを中止しようかと思ったのですが
落ち込んでいるであろう母親に会いに行くのもいいと思って そのまま決行したのです
2人が日本行きを決めて 母親に連絡したら母親が祖母にそれを知らせて
その知らせに祖母がDさんにも会えるね~と喜んでいたのにその次の日に亡くなってしまった祖母 とっても残念ですが これも受け止めるしかない そして間に合わないだろうと思われていた祖母の葬儀
これがなんともいえないタイミングでちょうど僕達が日本滞在中に執り行われる事になり
2人して葬儀に参列することが出来たというわけです
最初は車で行こうかといっていたのですが 時差ぼけで眠くなるかもしれないし
こういう葬儀ではお酒が入ったりすることが多々ありますので
のんびりと電車を使っての移動にしました
葬儀は午後一時からですので 腹ごしらえもしておいた方がいいと思い
これまた日本の文化! 駅弁を買って 電車の中で食べながら行くことになりました
ちなみに 目の卑しい僕はいろいろはいっているのお好み弁当
少しずついろいろ入っていて 楽しいお弁当でした
そしてDさんは 親子丼弁当
あまり甘い食材が好きではないDさんにとってこのお弁当とはいまいちだったようなので
途中で交換して食べることにしました~
僕にとったら十分美味しかったけどな・・・(笑)
のんびりと景色をみていると ところどころまた紅葉が楽しめました
日本へ向かうときこの時期もう紅葉は無理だろうな~もう遅いだろうなと思っていたのですが
なんのなんの!
写真ですといまいちな写りですが 実際の目で見るとそれは見事なさまざまな赤や黄色の木の葉
たいへん豪華で 思わずため息が出てしまうほどでした
カリフォルニア 特に僕達が今住んでいるところは温暖の差もそれほど激しくないため
ほとんど紅葉というものが見れない場所に住んでいるので
こういった光景を見れて 心地よい喜びに包まれました
これは祖母がくれた最後の贈り物だったのでしょうか?
葬儀のことをブログになんか書いてしまうと 何か言われてしまいそうですが
ここは僕の日記でもあり 日常の出来事も 思ったことなどの記憶を残しておきたいので
あえて 祖母の葬儀のことも書いておくことにします
この日本行きは葬儀参列が主な目的でしたが
実際祖母の葬儀に参列すると言う事実に実感がわかず
というか・・・祖母が他界したこと自体をあまり認識できない状態
今まで遠くはなれて住み 年に一度か二度日本へ帰ったときに会う関係だった為
亡くなったという報告が入っても心の中に何故か?
また日本に行けば会えるのではという感覚が拭えなかったのです
そういう心理的状態で葬儀への参列でしたから 悲しみよりも
一体ここで何をしているんだろう?と言う意識の方が初めは強かったです
キンキラ金で 葵の御紋がそこらじゅうについている本堂に入り
住職の話や 読経が聞こえても 悲しみと言うものはさほどこみ上げてきませんでした
もしかしたら 自分にとって祖母の死がそれほど悲しいものなのではないのかとさえ思ってしまうほどでした
久しぶりに会う従兄弟たちが幼い子供を連れて
今まで会ったことのない祖母の遠い親戚も駆けつけてくれています
静かな葬儀の中での子供たちの容赦ない はしゃぐ声は大変響きます
それは まるで祖母の死とそのひ孫たちの新しい生命の両極を
そう人生の縮図を見せられたような感覚さえあります
しめやかに執り行われる式の中
生まれたばかりの子供たちは大きな声を出し
死者は静かに佇んでいる この世の中はこの繰り返し
永遠はない 生と死の繰り返し
いつかは自分も幼い頃 誰かの葬儀で大きな声を出していたのかもしれないし
そして今度は 静かに眠ることにもなるのだろうな・・・ それが自然の摂理
そんなことを考える中 住職が参列者に焼香を促しました
祖母が一緒に住んでいた叔父夫婦 その子供達が次々に焼香に立ちました
そして 長女である僕の母親が焼香をして戻ってきた時
目の周りを赤くし その目から涙があふれ出ていました
あんなに気丈で もう心の準備が出来ているから大丈夫!と言って
この日 家を出る時も全くいつもと同じ感じでいた母親が泣いていました
今まで母親が泣いているところなど ほとんど見たことのない僕にとって
この現象が いきなり僕に祖母が本当に亡くなったんだという事実として理解させ
これは本当に起こったことで もう祖母には会えないんだと心と体が一致して理解した時でした
そんな状況下 涙腺がゆるくなってきたところに 僕の焼香の番がやってきました
今まで座っていたところからは 見えなかったのですが
祭壇の中央に祖母の写真があり 静かに微笑む姿がありました
僕がいつも思う 思い出す祖母の姿よりも ひとまわりも小さくなってしまった
優しく笑いかける祖母の姿を見たら もう心の流れを制御させるものがなくなってしまいました
亡くなったという報告を聞いたとき そしてそのあとも悲しいことは悲しかったものの
それを体の芯の部分から思ったような感はありませんでしたが
このとき初めて 心の奥のほうから悲しみがこみ上げてきました
しかしながらこれは 激しくこみ上げる悲しみと言うものではなく
静かな海辺に寄せる波のように すこしずづ一定の間隔を置いて寄せるような
ひっそりとしたそれでいて確実な不思議な悲しみでした
隣をふと見てみると兄が涙していました
こう言っては何ですけど・・・うちの兄は冷静沈着でほとんど感情と言うものを見せない
愛想もないけど 悪い人ではない 頭のいいでも何を考えているのかよくわからない人
その人も祖母の死に涙するとは意外であり それでいてホッとする光景でありました
彼も彼なりにいろいろと思うことがあるようです
葬儀が終わった後 場所を変えて お清めと称する
死者への最後の晩餐のような儀式がありまして たくさんの料理が用意されていました
食いしん坊の祖母にはこの最後の晩餐は嬉しいものだったことでしょう
最初に住職がお経を唱え 祭壇にある同じ食事に箸をつけ 祖母の御前に食事を供えます
その後 皆さんでまたお経を唱え 会食が始まりました
僕達はこんな食事が出るとは思ってもいなかったので
駅弁をしっかり食べてしまっており この食事にはかなり難儀しました・・・(汗)
でも美味しかったです(笑)
そんな食事の中 祖母の思い出話に花が咲く頃
叔母が ひとつの古い写真を見せてくれました
これは祖母が20歳の頃にお見合い写真として撮ったもの
つまり70年前ですから 1939年(昭和14年)に撮られたものです
祖母は いわゆる政略結婚みたいなもので
その当時 ある有力者の次男を婿養子として迎え実家を継ぎました
もちろんこんな結婚はうまくいくはずもなく 大変な苦労が待っていたそうです
さて この写真の左下の方に幽かに刻印が見られます
それはこの見合い写真を撮った写真館の刻印のようです
拡大してみるとこんな感じで
東 TOJO STUDIO
條 KOJIMACHI,TOKYO. と読むことが出来ます
70年も昔のことですし その後日本は第二次世界大戦を経て激動の時代を歩んでいきますから
この写真館がなくても当たり前だな~とおもいつつ ネットで調べてみたら・・・
なんと!驚くことに
この 東條フォトスタジオ しっかり現存しているようです!
ここの写真館のウェブサイトをのぞいてみると
”創業者東條卯作が麹町に写真館を開業したのは明治45年、1912年のこと。
それから今日まで、東條写真館は約100年近くの歴史を刻み続けています。”
とあり かなり歴史のあるフォトスタジオであることがうかがえます
長い歴史のなかでさまざまな著名人の写真撮影も多数 受けてきたようです
”・・・(中略)
また、女性を美しく撮ることにも戦前から定評をいただいており、
「東條で撮ると、幸せが訪れる」とのうれしい評価も頂戴しております。 ”
祖母の父親はきっと 20歳になったばかりの自分の娘をより美しく撮る為に
そして より幸せになってほしいとの思いも込めて
このスタジオで娘の見合い写真を撮らせたのかもしれません
その曽祖父の思いは通じたのでしょうか?
その娘が90になり たくさんの親族に見守られながら 食事もしっかり自分でとり
楽しく歌を歌いながら 大きな痛みもなく眠るようにこの世を去っていきました
もちろん途中 激しい戦争があり 貧困の時代もあり
大変な苦労があっただろうとは想像できますが
最後の最後の部分を見てみると そんなに悪い人生ではなかったのではないかと思えてきます
生きているうちに 祖母本人からこの写真を見ながら
この写真を撮った時の心情や思い出を聞いてみたかったな
彼女にとって この東條フォトスタジオのうたい文句のように
あそこで写真を撮って幸せが訪れたのか?と言うことも 本人から聞いてみたいものだった・・・
こうやって思うと まだまだいろんな話を聞きたかった
もっと頻繁に会えればよかったな もっとデートすればよかったな
でも もうそれはできないから
僕は祖母が幸せな人生だったと思うことにする
9月の訪問は 本当にしてよかった
もちろんあの時は これが最後になるとは思いもよからなかったけど
いま祖母の死をひどく後悔することなく悲しめるのは あの時毎日会いに行った
そのおかげかもしれない
人は時間が永遠にある錯覚に落ち
いつでも大事にな人に会えると思いがちであるが それは大間違い
人の命なんて簡単にこの世から去ってしまう
だから できる時に出来る精一杯のことを
態度に 言葉に出して伝えなくてはいけないのではないだろうか
さようなら おばあちゃん
たくさんの思いでありがとう
続く★
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